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城英輔さんからのメッセージ

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JAZZの父(城 英輔)からの手紙。。。連載!

JAZZ TOUR 2004・2005で演奏(ベース)をしてくださった「城 英輔さん」からのメッセージ!
城さんは、年に数回「jazz world」という ジャズ情報誌に、NYの事など執筆されています。
※2004年11月~2005年12月に渡りご協力頂きました。

城 英輔  ベース・ボーカル

薗田憲一とデキシーキング発足にベース・ボーカルで加盟。

1965年より水島早苗ボーーカル研究所でボーカリスの養成 にあたる。その間にビクター・ミュージック・プラザ、 東芝銀座セブン等ジャズ・ボーカルを重点にしたコンサートを製作。

1994年に福森道華が参加し、高橋幹夫とのトリオを組む。
以来都内のライブで演奏活動を行っている。

CD 「Mr.バンジョー」他

  城英輔 福森道華 Jazz
 
2004年: 11月 12月        
2005年: 1月 2月 3月 4月

5月

6月

  7月 8月 9月 10月 11月 12月

 


”「祝開店」 道華さんへ” 城 英輔より
=2004.10.28.=

道華からEメールが届いた。
ホームページが本格的になったという。
と、いうことは、各種品物を取り揃え、華々しく開店というということなのだろう。
したがって、この記事も、店内の一隅に置かれることになるのかな。
私は、これから数回にあたって記事を納入するつもりだが、願わくはホコリをかぶることなく、
来店の皆様の手にふれてもらうことを切に望む次第。
ひとえに道華のHPのために。

記事は原稿用紙2枚ぐらいにする。
文字変換に時間がかかるのを経験しているから。
私は、20年ほど前はワープロを使っていた。
そのころ制作していたイベントのプログラムを作るため、人差し指でワープロを打っていた。
だが、、今の機械は変換なんか簡単よ、などと言われたらどうしましょう。
それでも、多分、原稿用紙を使うだろうな。それなのに、Eメールは大好きだ。
限られた面だからこそ、送り方が吟味した文字が、液晶パネルに踊っているのを見ると嬉しくなる。
本当に!

原稿用紙は100ショップで買ってくる。
数年前、ボサノバ歌手のバネッサが来日していた時、100円ショップに連れて行った。
彼女、夢中になって衝動買いをしていた。
NYにもジャックスという99セントショップがある。
99セントショップといっても、全てが99セントではない。
1ドルとか2ドル、そのあとに99セントがつく。

高橋岬と西山晃子を連れて行ったところ、やはり衝動買いにハシっていた。
それとダフィーズという店、ここは良いドレスなどが安く並べられている。
ここにも二人は寸暇を惜しんでハマリ込んでいた。
以来、二人をダフィーズシスターズと呼んでいる。
良いものを安く手に入れるのは、とっても利口なことだと思うよ。
私も99セント店で、20x10センチ位のカンに入った4ドル99セントのクッキーを大量に
買い込んだ。
従って、これから、ジャックスじじィと呼ばれても、決して怒りはしない。

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”オー キャロル”
=2004.11.27.=

ニューヨークの鮨店”初花”に、スティーブキューンと連れだって来たのがキャロルフレデッテで、
キューンの40年来のガールフレンドだときいていたから、それとなく彼女の人柄は想像できた。
その日が初対面だったが、キャロルはあかぬけしたなかなかの美形。
真正面を向いて話してくるし、それがぽんぽーんと出てきて小気味いい。
勝ち気で、好き嫌いがはっきりしていて、気に入ればとことん面倒みようじゃないかという、
つまり下町育ちの気っぷの良さを具えた姐さんの姿が、彼女から見えてくる。

身長は1米66,体重は57キロほどか。
これは六番街の角の路上で、<二人でお茶を>をキャロルが口ずさみながら、
抱き合って踊った私が推量したところだから間違いない。
ついでにいうとキャロルからのメールは”ダンスの相棒”と送られてくる。
感激だ。

”ミチカ、舌ををだしてごらん。”
私の発音の悪いのは舌が短いからといったミチカだが、素直に舌を出すと、
”それだけ長けりゃ充分のはずよ。”とキャロル。
”クランベリージュース、プリーズ。”と注文するたびに
”ホワット?”と聞き返されていたミチカが、
いまではニューヨークの生の空気を呼吸していられるのも、
こんなキャロルにもまれてきたからだと思う。

”昨夜、三人の歌手の登場するコンサートに行ってきた。”キャロルが上気した面もちで話し始めた。
”Lize Wrightがすごく良かった。涙が出てきちゃったわ。”
その場では、リズライトの名だけ記憶して、後日にリズのCDを聴いた。
それは今風のサウンドで、感覚のレンジが狭くなっている私には、ちょっと、追いつけない。
でも決して悪くはない。
マライヤキャリーの便秘的金切り高音と違って、やや落ち着いた声質で、
こういうのがメインになれば世の中、少しは安心出来るかな、というのがせいいっぱい。
それにしても、キャロルの感覚と度量の広さにあらためて感嘆した。 やわらか頭なのだ。

キャロルからメールが入った。新しく出すCDのジャケットに、ユーが撮った写真を
使っていいか。すぐ返信を送った。 
オー、キャロル!そうなりゃ本当に嬉しいよ。

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『石段の猫』 PART 1
=2005.1.5=

<ルーズベルト島>
ニューヨークのイーストリバーに、南北に細長い島、ルーズベルト島があります。
マンハッタン島の訳30分の1位の小さな島。
浅井秀剛’ニューヨークの秘境探検’に、イーストリバーを越えてマンハッタン島と
ルーズベルト島を結んでいるトラム(ケーブルカー)に来ることが秘境探検に成ると
書かれていた。その探検をしてきました。
マンハッタンの発着場は、クィーンズボロ橋のたもとにあって、そこからトラムは
地表を離れ、3,4分でケーブルの天辺に吊り上げられる。ここからは長大な
クィーンズボロ橋は眼下に、右手に摩天楼群が望見出来る。この景観が楽しめるのも
僅かの時間で、トラムはルーズベルト島に向かって下るのです。7,8分の空中遊覧でした。

 私と同行の西山晃子は、島の発着場の前に止まっていたバスに乗り込む。バスが
何処へ行くのかは知らないが、トラムから降りた数人がバスに乗るので、その人達に
追いて乗っただけ。動き出したバスは、北上しはじめ、地下鉄の駅前を過ぎ、数分後
に折り返し点らしき所に着いた。みんな降りるから、我々も一緒に降りる。
降りた客のなかにナップザックを背負ったカップルがいたので、
’我々同様の観光客かもしれないよ。’と、彼等の後に追いていく。

ところが二人は、途中で左の道に入り、消えてしまった。考えてみれば、島は観光地
ではないので、観光客など来ないことを始めから判っていてもよかったはずなのに。
’いなくなっちゃったよ。ま、このまま真っ直ぐ歩いてみようか。’
6月の陽光がやわらかいイーストリバーぞいの遊歩道を、
’ニューヨークにもこんな静かな所もあるのね。’
などと、感心しながら散策していた。やがて、広い前庭のある白い建物の前に来たの
です。シルバーメタリックの看板を見ると病院です。そういえば、この島は病院の島
だと聞いたことがあった。それを憶い出したら、この島のこの辺りの静寂が、人の運
命を悟しているように思え、一瞬、身震いしたのでした。

バス停まで引き返す途中に、テニスコートがあり、子供等とベビーシッターらしい
人達がベンチに腰かけている。我々もちょっと離れたベンチに座り、煙草を一服。
その煙がふんわりと流れていって、ベビーシッター達までとどいてしまったらしい。
彼女等はなにやら非難めいた言葉をなげかけると、ベンチから立ち上がり、行ってし
まった。ここでの喫煙は犯罪行為に等しいのです。
バス停で年配の紳士が一人、バスを待っていた。やってきた空っぽのバスが
そのまま通過してしまうと、 ’どうやら私達をのせたくなかったみたいだね。’
紳士は笑いながら話しかけてきました。そこで私は賭けてみた。

’アー ユー ドクター?’
紳士 ’イエース。’
当たり。なにしろここは病院の島なのだから。次のバスには乗せてもらい、バスは我々
三人だけを運びながら、地下鉄駅前に着く。
駅前から痩せた中年の男が乗ってきて、私達を見ると
’ジャパニーズ?’
ときましたね。男は日本の芸術に興味があり、日本語も習い始めたそうだ。さらに
自分は写真家で近く個展を催すなどといっていたが、本当かどうか。私には、彼は
ただの貧乏アーチスト風にしか、見えなかった。
’日本の女性はビューティフル。’
と、いって晃子女史の気を引いている。まあ、この類はどこにいっても必ずいる。

私はニコニコ顔で彼のはなしに頷きながら、この俗物め!と腹のなかで毒づいた。
アバヨだ。
再度トラムにゆられてマンハッタンに帰る。私は観光客だから、これはと思う場所
や場面は記念にバチバチと写真に撮る。トラムとクイーンズボロ橋をバックに入れた
晃子女史のスナップ。マンハッタン発着場そばの、映画”素晴らしき日”のロケに
使われた有名なチョコレート店”セレンディピティ”の横看板を入れたスナップ。
写真は上出来である。時に友人に見せて得意げに解説しています。
ここで終わりにしたいところだが、帰りのトラムから眺めて知ったところを告白
する。ルーズベルト島の散策は、北ではなく南に向かうべきだったのだ。だから
見知らぬ人についていってはいけなかったのです。

(PART 1 おしまい ※PART6迄続きます。)

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『石段の猫』 Part2 
=2005.2.1=

”ブルックリンブリッジ”

かつてミチカと出演していた東京倶楽部の壁一面に、ニューヨークの大きな写真が
貼られていました。ある人は、ブルックリンから写したものだといい、ある人は
クィーンズからだという。わたしはそれを自分の眼で確かめたいと、ずーっと思ってました。

 マンハッタンのイーストリバー入り江近くの対岸が、ブルックリン。
ブルックリン。私はこの名称の響きが大好きなんです。マンハッタンと口にすると、
何かにけっつまずいた感じになるけど、ブルックリンと口に出すと、きれいに円が
描けたような爽快感に満たされる。
あなたも口に出してみて下さい。ブルックリン!
ネ、とても気持ちがいいでしょう!?

ブルックリン橋は歩いても渡れるのですが、まだ歩いたことはない。一度だけ、
観光バスで渡ったことがある。ニューヨークの観光バスは、2日間のチケットを
買うと、好きな所へ行くバスに乗れて、好きな所で降りてもいいシステム。
そうやって、その日の最後に乗ったのが、ブルックリン方面行きの観光バスでした。
バスはブルックリン橋を渡ると、橋のたもとの広場に着く。
’ここで10分間の停車です。’と、アナウンスした、小肥りの女性添乗員に付いて
観光客一同がぞろぞろと下車する。時計は午後8時を過ぎていたが、添乗員は夕暮れ
の空間にそびえ立つ摩天楼を仰いで、’いつ見ても、ビューティフル。’と、
観光客に届く程度のつぶやきをもらした。それが功を奏したかどうかは知らないが、
客の一人が’本当にワンダフル。あなたのガイドもワンダフル。’といって、
いくばくかのチップを渡していた。2,3人の客も右にならえ。
私は、ぼんやりと景色を見、ぼんやりとガイドと客のやりとりを見ていた。ぼんやり
と見ていたのは、朝からの観光で、すっかりくたびれていたからです。

 映画”恋愛小説家”にも、ブルックリン橋を走っているバスのシーンがありました
ね。はじめにバスが、それがズームされて橋が、さらにマンハッタンに拡がっていく
シーン。映画をビデオで見ていた私は、そのシーンで思わず’あーっ’と大声を
出してしまった。そのシーンに、ワールドトレードセンターが映っているからです。
崩れ落ちていくビルの有様を、テレビで何度も見せられていたので、画面にはまだ
立っているビルを見た違和感が、私に悲鳴を上げさせたのです。

 こんなエピソードを読んだことがある。当時者以外は笑ってしまう話です。
作者は、イタリア人街のあるレストランを訪れたそうだ。そのレストランで
ギャングのボスが食事中に射殺されたのを聞いていたからです。レストランの
主人は’ボスはこのテーブルで食っている時に殺された。’と説明をかって出て、
’事件があってから妙に繁盛しているよ。’作者はブルックリンにもボスが射殺
された店があることも知っていたので、あの店はどうだ?と尋ねると、
’あの店は潰れたよ。ボスと一緒に主人も撃たれちゃったのさ。’
怖い話ではあるが、テロとは違い、都会というメカニズムの醜い面が表に出ただけ
のことだと思う。東京だってヤクザの抗争で、撃った撃たれたの事件がある。
それでも私は、大勢の人間の営みで組み上がり、ダイナミックに機能している
東京が大好きです。

 ”スモーク”という映画がありました。見るましたか?。まだだったら、すぐ
ビデオ屋で借りて見て!とお薦めする名作。紹介文には’ブルックリンの下町でーー’
とあるけれど、エリートではない普通の人々が出てくるので、あえて下町としたのか。
主人公オーギーレンの煙草店に出入りする人達の、それぞれの生活と小さな願望を
つづる、ほろ苦い人情話です。下町の町並みがいい。続編の”ブルーインザフェイス”
では、マドンナが店先で踊ったりしている。私も店先でステップをふんでみたい思い
です。あれやこれやの想像をかきたてるブルックリンを訪れたい。
ミチカに連れて行ってもらおう。勿論、スタートは”歩いて渡るブルックリン橋”に
なります。

追記:東京倶楽部の写真の件。未確認です。

(この項おわり。)

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『石段の猫』 PART3
=2005.3.1= 

”ジュライ フォース”

ブルックリン公園は、ニューヨークに来ると必ず訪れる公園です。公園のベンチに 座って、
イーストリバーと、マンハッタンを眺めている時、ニューヨークに来ている 実感がしみじみ
沸いてくる。途中にラーメン屋のような脂じみたタコス店があって、 そこに寄るのがミチカ
の 楽しみになってます。

7月4日は独立記念日。全米がお祭りの日。私の今回の観光の目的が、お祭りで 打ち上げ花火を、
ブルックリン公園で見ることなのです。
その日、12時に植村ミホコが迎えに来た。ミチカは昼間の仕事が入ったので、 私と晃子女史と
ミホコの三人は、食事をイタリア料理’バローロ’に決めた。
この店は中庭にもテーブルがあり。煙草が吸える。それと以前に入った時、いかにも格好のいい
給仕達が揃っていたからです。

煙草は吸えたのですが、給仕達のランクは大幅にダウンしてましたね。屋内に戻るとTVが
サッカーを中継していて、その前に 陣取ったギリシャ人の一団が、喚声を上げ、旗を振り、
ワインを飲み散らかして 自国チームを応援している。私達はその中を’失礼、失礼’と謝りながら
表へ出た。
3時にミチカが合流。ミホコのプランで私達はバッテリー公園に向かったのです。
公園の内外で沢山の人が往き来している。特設ステージではロックの演奏が景気を煽っていて、
お祭りのヴォルテージが、もう相当に上がっていました。フェリーの切符売り場窓口には
’本日の自由の女神行きフェリーはありません’の張り紙。

島はすでに満杯か、それともテロ以来、厳しくなった手荷物検査がパンクしたのか。
そこで通勤フェリーに乗ってスタテン島に渡ることにしました。ところが、フェリー乗り場が
見つからない。道路に立っている警官に尋ねると、あっちだ、という。
そこにいっても無いので、そこにいる警官に訊くと、あっちだ、という。結局は我々が最初に
行った場所にあった。工事中の囲いで通路を見損なっただけでした。しかし、私は毒づきましたね。どうせ田舎から駆り出された警官達さ。右も左もわかっちゃいねーっ。
まあ、これほど人が出ていたのです。

フェリーは以外と空いていて、私は窓から見える女神様にご挨拶を済ませる。
船賃は前は有料だったが今は無料。解せないのが地下鉄が島に一路線あること。
東京だったら海の底を掘って繋げちゃうね。島の船着き場から一寸離れた食料品店みたいな
ところで,薄いコーヒーを飲んだ。
船着き場に戻ると、キリスト教の一団が神の教えを説き、賛美歌を歌っている。
サッカーファンは応援で。信者は布教で、今日一日を満足しているのだろう。
私は船室で居眠りをしてしまいました。
ミホコの計略、いや計画では夜の食事はヴィレッジのスペイン料理になっていた。
店は綺麗な小路が交差する角にある。店の斜め向かいの小さなビルの玄関に、星条旗が飾られ
ていて、それが町並みに、可愛いらしく映えていたのがとても好ましかった。
ミチカもミホコも、よく店に来たらしい。給仕は’料理はスペシャルに、ワインはこれを’とすす
めるが、ミホコは毅然と’ソフトドリンクと料理はこれ’とオーダーする。
流石に慣れたものだと感心した。店を出るとき、ドーンと一発、音が聞こえた。

ブルックリン地下鉄を出ると、人、人、人の群れが、駅に逆流している。
まるで明治神宮の初詣の人波だ。私達は逆流に逆らって、公園に入りました。公園にはまだ、
祭りの終わりを惜しむ人達がかなりのこってはいたが、それもしばらく過ぎると僅かになった。
花火の打ち上げは終わっていました。仰ぐ夜空に光るのは観光ヘリコプターの灯。
川面で小さく光っているのは筏におかれた’メーシーズ’のネオンサイン。
それでも私は満足でした。対岸の姿を見て、今年もニューヨークに来ることが出来た 感慨にひたっていたのです。

明日の帰国便は早い。しかし今夜は旅行の最後の日だ。’これからジンクバーに行こう。
’旅人の7月4日は、こうして過ぎていったのです。
(この項おわり)

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『石段の猫』 Part 4 ”こんな人に会った その1”
=2005.4.2=

管理官なのだ。
’出入国審査では、ニューヨークには何をしにと訊かれたら、Sight Seeingと
言えばいい’と、私は同行の伊藤女史に教えていた。
私の審査が済み、女史の番になった。女史は迷わず’Sight Seeing'と申告。男性の
管理官は’観光?’と語尾を上げる。女史は’イエス。’管理官は再度こんなふうに
訊きましたね。’観光なのかハイなのか、どっちなんだ。’思わず助け船を出そうと
したが、審査官は査証にバンとスタンプを押した。私は女史をせかせた。
’早くこっちへ来いよ。ぐずぐずしてると、奴は電話番号まで聞き出そうとするぞ。’

雨が降った。
五番街のウインドウショッピングの途中で夕立に遭う。立派な店の軒先で雨宿りを
していると、南米系の小僧が何処からともなく現れて、’アンブレラ、アンブレラ’
と、小脇にした傘を一本10ドルで売りに来た。土砂降りも中断したところで、タイ
ムズスクエアの’チケット’まで来ると、またもはげしく降り出した。
すると、先程の小僧が待っていたように現れて’アンブレラ、アンブレラ’。
そこでも売れる様子はなかった。その後夕立に遭っていないから、小僧にも会ってい
ない。

スポーツが好き。
六番街を歩いていた中村君に、野球帽をかぶったオッサンが、なにやら言いながら
握手を求めてきた。よく聞くと’イラブ、イラブ’といっている。前日の試合で
ヤンキースが勝ち、勝利をもたらしたのが伊良部投手だったのだ。この出会いの場所
が、ホラーが売り物の’ジキルとハイド’レストランの前だった。いささかホラー
じみていたので、よく記憶している。

伊藤女史が、ウクレレを売っている店を見つけた。
おみやげにしたいから一緒に来てという。楽器店の店員はアルゼンチン人だった。
ウクレレを持ってきて交渉する。’我々は日本人だ。昨日、おまえの国に日本が
負けた。今日はおまえが負けろ。’結果、税金分と少し値引きさせた。昨日とは、
サッカーワールド杯で、アルゼンチンと対戦した日本チームが敗れた日である。

シェアスタジアムに行った。
サブウェイシリーズといわれる人気カード。ヤンキースとの対戦を翌日にひかえる
ニューヨークメッツのホームグラウンドである。スタジアムの周辺は閑散としていた。
荷物を出し入れしている係員に’スーベニアショップはどこ?’と尋ねたが。今日は
開けるのかどうか分からない返事だった。東京ドームや横浜球場では、試合のあるな
しに関係なく、いつでもグッツを売る店は開いて客を待っているのに。がっかりした。
私は’METS SHINJOH'のTシャツが欲しかった。そして今でも残念だ。メッツ新庄は、
その年だけだったから。

セントラルパークで釣りをしている人がいる。
公園の池で釣りをしていいのかな。親指位の小魚が掛かった。釣り人が手元に引き寄
せ、糸からはずすと、白い鳥が舞い降りて口にくわえ、もといたポジションに
飛んでいく。それは毎日の釣り人と鳥の儀式のようだ。長閑に釣り人は行けに糸を
垂れ、私も長閑にキラキラと陽が映える池面を見ていたのです。

地下鉄で見た聞いた。
両足を失った黒人が、板に車を付けただけの
キャスターに乗って、乗客にお恵みを乞うていた。その車内に広告があった。
’車内で金銭を乞う者に、絶対に与えぬこと。その分は当協会に寄付を。’

地下鉄に初めて乗った勉慶君が’さすがニューヨーク。車内アナウンスの車掌の声が
ルイアームストロングにそっくり。’と喜ぶ。だがその後、ルイばりの声の持ち主の
乗務する電車に乗り合わせていない。勉ちゃんは、その車両に乗った偶然に感謝すべ
きかもしれない。

(この項おわり)

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『石段の猫』  Part5 “こんな人にあった”その2
=2005.5.2=

老バイオリニスト
自由の女神に行くことにした。
フェリー波止場にはお土産屋はなく、そのかわり、肩から提げた箱にずらりと並べた
時計を売る者、同じようにネックレス、腕輪を売る者、緑色のウレタンを型抜いた
女神の冠を売る者,何を売るのか判らない蛇を腕に巻き付けていろ女、等々が
集まっている。サックスをボーボーと吹いている老黒人や、数人でアクロバットを
演じている若者達もいる。波止場は、まるでサーカスと夜店を太陽の下に
おっぽり出したように、騒々しく猥雑である。

フェリーに乗る列に並んでいると、老バイオリン奏者が我々に目を付け、
’アリラン’を弾きだした。我々は無関心に決め込み、脇見をしていると、
曲を中断して’ふるさと’の演奏に変更した。ワンコーラスを弾き終えた老人に、
中村君は1ドルのチップを渡した。老人と目が合ってしまったからだそうだ。
列には中国からの観光団も並んでいた。老人は彼等に何を弾くのか、私は
興味を持って待っていたのだが、その間もなく乗船した。

自由の女神は、ニューヨーク湾のリバティ島に建っている。湾は大西洋の出入り口。
私は初めて大西洋を見た。出来れば大西洋に手足を漬けてみたかった。

美空ひばりのヒット曲’川の流れのように’の作詞家は、ハドソン川を眺めていて、
この歌詞を創作したそうだ。国民的流行歌の歌詞が、利根川や信濃川ではなく、
ハドソン川から生まれたと聞いたとき、意外な事実に一寸びっくりしたものだ。

老バイオリニストが奏した’ふるさと’が、私にひとつの事を教えてくれた。
忘れかけていたこの歌を”兎追いし”と歌ってみると、牧歌的なメロディと、
詞にこめられた故郷への恋情が正直に込められていて、実に名曲であるのに
気付いたのです。以来、’ふるさと’を、私の国歌にしている。旅は旅人に、
イメージを沸かせ、教え、思わぬ事をさせるのです。

ヴィッキイーーハーレムのウエイトレス
私の身体が貧弱の聖歌、黒人の前に出ると彼等が猛々しく精悍に見えて、つい萎縮
してしまう。ハーレムは、そんな黒人達だけが住んでいる町だと考えると、なかなか
足が向かない。それでも数回、通り過ぎた事がある。観光バスの二階席というか、
屋根の上に具えた席から、通り過ぎるハーレムの風景を眺めていた。

アポロ劇場の前を通る。劇場には次回のアマチュアコンテストの看板が光っていた。
(私の友人、ドーリーベイカーは若い頃に出場し、優勝してしまったそうだ。)
劇場の建物を数枚、カメラで写した。今もアルバムに張ってある。

教会の前にさしかかると、日曜日の午前中だったので、盛装した黒人達が集っている。
女の子は頭にリボンを付け、男の子はネクタイをしめていた。バスはそこを、
さーっと通り過ぎたので、光景をカメラに納めることは出来なかった。

別の年に霧生ノブ子と三人の日本人が出演しているハーレムのバー’ショーマンズ’
を訪れた。店内の客は、私とノブ子さんの知り合いの数人を除くと、全員が黒人
である。私は記念に日本人出演者の写真を撮り、演奏に耳を傾ける客も入れた店内の
様子も数枚写した。

ショーマンズの近くにクラブがあって、そこにビッグバンドが出演していた。
カウンターの内にいるウエイトレスが、全盛期時代のジャズにマッチして風情がある。
彼女を写した。そして早々とハーレムから引き上げた。

私が、ことさらに写真、写真と記したのには訳がある。1968年から2年間、
ハーレムで暮らした女流写真家の吉田ルイ子が書いた本で、当時は黒人の人権運動が
高まっていた時期、ハーレムを写す報道写真家は拳銃で武装していたこと、著者も
被写体には承諾書にサインをもらい、承諾料として1ドルを支払っていたこと、等々
を知ったのです。ハーレムには、様々な事情があって写真に撮られたくない人が、
今でもいるそうだ。やたらにカメラを向けていた自分を反省している。でも、
ヴィッキーの写真は上出来である。

(この項終わり)

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『石段の猫』  Part6
=2005.5.31=

私がニューヨークに行くのはミチカとミホコに会いたいからです。会って色々と話を聞く。
二人が今、何を考えているか、何をしているか、何をしたいのか。
それを自分の目で見て納得したいからです。

ミホコとミチカが、音楽の世界を歩き始めたときから、私は二人に関わりを持っていた。

植村ミホコと初めて会った時、その頃まだ音大生だったミホコは
”コルトレーンが好きで、ミードー・ルックス・ルイスのブギウギが好きで、
ミック・ジャガーが好き。そしてビリー・ホリディはブルース歌手です。”
と相当入れ込んだ口調で並べ立てた。しかも彼女は音大で声楽を専攻している
ときいて、ジャズと形式的な固定観念で覚えていた私は、ショックを受けたし、
彼女は意外と本質を捉える感覚を持っている子ではないのかなと、感心もした。

ミチカが私と演奏を一緒に始めた頃、私は資料を与えたり、歌詞の意味を教えたりした。
だが着実に進歩し、私が追いついていけないほど先に行ってしまった。
その頃、ステージでこんなジョークを喋った。”最近ミチカは確実に腕を上げています。
上がらないのはギャラだけです。”だが両方とも事実だから内心は真面目だったのだ。

私は二人に初めて会った時から、二人のストーリーを頭の中で書き続けている。
当然未完で終わることは承知しているが、私が二人を見ていられるまで書き続けて
いたいのです。

十二月十七日に、ミチカのお母さんからお歳暮が届いた。贈り物の内容を記す。
<1>200mlの低塩醤油7箱入りケース。
<2>ジャガイモ7個
<3>ニンジン2本
<4>ツナフレーク缶詰3個
<5>おばあちゃん(ミチカの祖母)手作りの梅干し,たくあん漬け、
大根のシソ漬け、プラスチックの容器入、り各1箱
ミチカのお母さんの人柄らしい贈り物で、私はとても嬉しかった。

さて、年の暮のことを記したのだが、実は’石段の猫’は2004年の十二月に
書き上げたもの。ミチカのホームページが毎月発信されるとして、六回分に
なるように、ミチカに分けてくれるように頼んだ。丁度六月に終わる。六月になれば、
また書きたいことも溜まってくるだろう。
私の使っている電気釜は炊けるとチリーッチ、チリーッチーとブザーが鳴る。
私にはそれがコレッキリ、コレッキリと聞こえる。コレッキリにはしたくない。
こうした書く楽しみを再発見したのだから。

ある晩、ミチカとブロードウェイに近い道路を歩いていた。アパートのビルの石段に、
住民に抱かれた猫がいた。ミチカは石段の猫の背中を撫でた。次にニューヨークに
来たときは、私も石段の猫の背中を撫でてみたい。

 
(この項終わり)

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WAY DOWN YOUNDER IN NEWORLEANS- 遙かなるニューオリンズ1
(石段の猫番外編)
 =2005.7.3=

40数年前、ニューオリンズから白人のトランペッター、シャーキイ・ボナーノの
楽団が来日することを聞いて、園田憲一、石川順三諸兄等数名と一緒に、羽田空港へ
一行の歓迎に出掛けた。当時の羽田空港は、三階建てのビル一棟あるだけで、その屋
上から到着した飛行機のタラップを降りてくるシャーキーの姿を見るや、私達は
演奏を始めた。するとしばらくしてから、シャーキーが’WAY DOWN YOUNDER IN
NEWORLEANS'を吹きながら近づいて来たのです。これがニューオリンズの演奏家との
初めての遭遇でした。シャーキイのLP’ニューオリンズの一夜’、なかでも
リージィ・マイルズがクレオール語で歌った’ビル。ベイリー’は絶品、ジャケット
にサインを貰いました。だがそのLPは、あるCMディレクターに貸したっきり、
現在もディレクターと一緒に行方不明。これは残念で口惜しい。二度とシャーキイ
直筆のサインを貰えないからです。

ジョージ・ルイスのニューオリンズオールスターズが初来日したのは、昭和37年
頃だったでしょうか。以来ジョージは数回、来日公演を行っています。ある年、大阪
のホテルで、ジョージとソニー・ロリンズが向かい合ってお茶を飲んでいる場面を目
にしました。その時に限り、カメラを持っていなかったので、その貴重なシーンを写
すことが出来なかった。とても残念。それにしても、一つの都市で同時に二つの
ジャズコンサートが公演され、いずれのホールも満員。高度成長期のその頃は、
ジャズにも多くの聴衆が集まっていた。今では夢のようです。
ジョージ・ルイスがTBSの番組に出演し、話題がニューオリンズのファンクショ
ン(葬式)に及んで、ジョージは”墓場に行くときは、HYMN(賛美歌)を演奏し
帰りはジャズを演奏する”といっていたのですが、解説の油井正一さんも河野隆次
さんも、ジョージの言葉どおりに伝えてくれなかった。私には、ジョージの説明が、
とても大事なことのように思えたから、今でも引っ掛かっています。沢木耕太郎
’バーボン・ストリート’新潮文庫で、作家は”バーボン・ストリートのいかにも
安っぽそうな店で聞いた陽気な数曲の中に、おそろしく長い題名の曲があった。
<お前が死んじまって俺はうれしいぜ。この馬鹿野郎!>ここには強い語調に
たたえられた深い悲しみがある。男が男を葬送する惜別の辞として、これ以上の
ものはない。”と書いている。この記述は、南部のプランテーションという黒人
だけのコミュニティで、彼等の感情を率直に演奏で表現した、やがてジャズと
呼ばれる音楽の精神を、鋭く見抜いているように思え、沢木という作家の感性に
感嘆しています。

昭和42年に、キッド・シークとニューオリンズオールスターズが来日しました。
キッド・シーク(トランペット)キャプテン・ジョン・ハンディ(アルトサックス)
ウォーシャ・トーマス(トロンボーン)チェスター・ザーディス(ベース)
フレッド・マイナー(バンジョー)チェスター・ジョーンズ(ドラム)。公演ツアー
に司会者として私は同行しました。彼等の演奏は図太く濃いという、独り合点の表現
でごめんなさい、空間を音で濃く塗りつぶしていくような迫力のあるものでした。
実はツアーの間に、ある日本のグループの演奏を聴いたのですが、何故か空間に透き
間がのぞいているような感じがしたので、余計に彼等の演奏が濃く聴こえたのです。
シークは、私の知り合いの松尾歯科で、義歯を新調しました。だが、使わずにいた
ようです。ハンディは、アルトのリードにプラスチック製を使ってました。記念に
それを貰おうと思ったのだが、彼はずーっと一枚きりのリードを使っていたので断念。
ドラムのチェスターは、来日そうそう風邪を引き。連日のように医者に連れて行った
ので感謝された。ルイジアナ州ミドル級チャンピオンで、市警巡査でドラマーの、
背を折り曲げながら内股で歩き、泣き顔のような笑顔を見せたチェスターだった。
”今日、登場の演奏者の平均年齢は60歳。私もその歳になっても彼等のように
元気で頑張りたいものです”などと、ステージで演奏者を紹介していた私は、すでに
彼等の平均年齢を超えました。
6月10日。ニューオリンズに着きました。ジョージ・ルイス、シーク・ハンディ、
チェスター等、知り得たミュージシャンが生まれ育った地の、巡礼の度の始まりです。
"I'll Be Glad When You've Dead, You Rascal you!"

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遙かなるニューオリンズ2
(石段の猫番外編)
=2005.8.3=

 ジャズの故郷ニューオリンズに着いたのは6月10日。2日後にミチカとミホコが
合流した。多分ミチカもニューオリンズのレポートを記すと思う。きっとそれの方が
面白い結果になると思ってます。

 フレンチ・クオーターのホテルで、案内された部屋が予約した内容と違うので
”困るよ”といったら、ホテルで一番広い部屋に替えてくれた。2LDKの
スウィートルーム。大いに結構。
ここからは、私のまわりにいるニューオリンズ・ジャズ信奉者が読んだら
烈火のごとく怒るかも知れない。いささか辛口のレポートになります。

 ニューオリンズは観光地。観光客がワンサカと集まる。若い人が多いから、目抜き
通りのバーボン・ストリートでは、スピーカーをたいして広くもない表通りに向けて
大音響を遠慮なく放り投げてくる。まさにロックサウンドの大氾濫です。落ち着い
た?観光客がジャズを聴きに行く所が’プリザヴェーション・ホール’。
このホールがプリザーヴ(保存)しているのが古典的ジャズの演奏です。かつては
古老達も演奏していました。しかし、そこで聴かされた演奏は、観光客用の演奏だった。
演奏者は古典なレパートリーを定食のように演奏している。味気ない
定食料理です。もっとも客の大半は’この曲は知っている’という安心感からか、
満足している様子でしたが。私が行ったときに、ある客が”コーリアーズ・
クラムベーク”と、大声でリクエストした。この曲は50年くらい前に
ニューヨークで、当時の最高の演奏者がジャム・セッションをやった時に
出来上がった曲で、私も愛聴している名盤の曲です。リクエストに、寸時、演奏者が
しらけた。だって味噌汁のかわりにコンソメスープを頼まれたようなものだから。
’聖者の行進’がリクエスト料10ドル。おなじみの曲だから誰かがリクエストした。
歌の変え歌が入った。’恋人がいたんだ。彼女は私がミュージシャンになったら
いっちゃった。’というのだが、こんな歌詞を聴かされたって、ちっとも面白くない。
あーぁと溜息ものでした。とにかく、前述の半可通のリクエストは別として、客は
定食を注文し、演奏者はハイヨッと差し出してくる。プリザヴェーション・ホールは
古典曲は保存してもハートは保存していない保存殿堂でした。当日の演奏者のうち、
ピアノが渡辺マリという日本人女性。彼女はニューオリンズ・ジャズに魅せられて
同地に長く留まっている。同行したピアニストの西山晃子は”渡辺さんが別の場所で
別の人と演奏するのを聴いてみたい”と、呟いたが、私も同感。定食以外の彼女の
料理はどんな味がするのだろうか。

ここまで、悪態をついてきた。食べ物を記そう。ミチカ、ミホコ、晃子の三人が
喜んだのがべニエ。薄い揚げたシュー皮の上に雪山のように白砂糖をまぶしたもの。
甘さの大攻勢に一口で敗れた。一緒に飲むのがチコリ・コーヒー。コーヒーは
インスタントもあって、買ってきたのだが、半分以上はホテルに置いてきた。
また悪態になってしまった。

 こんな風に書いてきたけれど、やはりニューオリンズは良いところだと思う。
機会があったら、また行きたい。オイスターとキャット・フィッシュ(なまず)
の味が忘れられないから。

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”石段の猫”ーーー「かもめの便り」 
 =2005.8.30=

暑い暑いといいながら、今年の夏も過ぎました。私の夏は、高校野球の予選が始まる
ときに始まり、甲子園での決勝戦が終わるときに終わります。ことに今年は決勝戦が
終わったときに、あー今年の夏も終わったなあと、ひとしお寂しさを感じたのでした。
年のせいです。

 夏のはじめに、友人の小林志郎さんから「かもめ」を上演するので参加してほしい
と、依頼がありました。「かもめ」は、今から26,7年前に、小中学校演劇教室
向けに制作されたミュージカルで、小林さんが本を書き演出した作品です。私は音楽
の手伝いをしました。私にも愛着のある作品ですから、喜んで参加しています。
上演するのは学芸大学付属世田谷小学校の児童と父兄たち。児童たちと歌を唱い
稽古を続けているうちに、久しく胸の奥にとじ込めていた苦い記憶、私が40代
だったころの私的事情、などが甦ってきました。稽古を楽しみながら同時に悔恨の
苦汁も飲んでいます。やはり年なのです。
嬉しいことは、学校父兄の誰かがミチカのHPを開いて見ているようで、’城さん
って、父からの手紙を載せている方でしょうか’と、小林さんに訊かれたそうです。
その父兄が誰方なのかは判りませんが、とにかくミチカのHPを読んでいられるよう
なので、多分この手紙も読まれることになるのではないでしょうか。そこでこの手紙
を「かもめの便り」とした訳です。
「かもめの便り」-ソーラン節、そういえば今年の高校野球は北海道の高校が優勝
したのでした。(この連想はちょっと無理がある。)

 NHKのスポーツニュースで’サッカーのワールドカップまで後264日’といって
いました。ワールドカップは来年6月です。そしてそれは、私が再びマンハッタンの
石段の猫に会えるかも知れない264日でもあります。待ち遠しい264日です。

附記:ミュージカル「かもめ」は、11月に抜粋上演。本公演は来年1月に予定されています。

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『石段の猫』
=2005.10.15=

みちかのツアーが終わった。非才老骨にムチを打っての10日間だったが
完走した。みちかの故郷はいつも良い。みちかの友人たちも大勢来てくれたが、
みんな可愛い。そして一番可愛いのがみちかのお母さんだ。とにかく一生懸命。
みちかへの献身ぶりに頭が下がる。
ツアーの宿泊所はみちかの自宅で、広大で部屋数が多い。寝床にたどり着くまでは
迷路を行くよう。慣れないから足をあちこちにぶっつけながらであった。
昼食は町中にあるファミリーレストラン’さと’。ここにした理由はトイレが
ウォシュレットだったから。アッハッハ。

ツアーも後1日という土曜日に慰労を兼ねてみちかの友人達も招き、すき焼きを
かこんだ。肉は名高い伊賀牛。調理は料理人をかってでた高橋幹夫でなかなかの
腕前だ。それぞれが満腹し、残した分は福森家の飼い犬に与えた犬もがんばって
いたからだ。犬はワンと吠えたが、ごちそうにではなく、散歩に連れて行けとの
催促だったらしい。ワン君の呼び名は’いち’。ワンと吠えるから、いち。単純な
発想が新鮮でいい。慰労会が終わったのは午前3時半。西の田んぼの上に肌色の
満月が浮いていた。

みちかからメールが入った。風邪気味だそうだ。私も学大小学校のミュージカルの
稽古で父兄から’風邪声ですね’といわれた。今は直った様子。鼻水がでるので
ティッシュペーパーを携えていたが、今はそれを鼻紙を捨てるがごとく捨てている。
(私はこういうレトリックが好きなのだ。)
一昨日、朝の9時に突然の雨漏り?階上の部屋をリフォーム中の業者が水を
漏らしたのだ。苦情を言うと、責任者が見にきて、天井をふくめた壁紙を修復する
ことで決着。’楽器に水が掛からなくてよかった’などと話をしているうちに、
浅草ハブの話になった。水をぶちまけた張本人が’ハブは知ってます。今度聴きに
行きます。’だってさ!何だかんだいっても、来てくれればファンを1人獲得となる。
天井の禍をもって福となす。私は楽天家なのか。
8日と9日は神戸ジャズストリートに出演する。みちかのお母さんがきてくれる
そうだ。嬉しいね。

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『石段の猫』
=2005.11.9=

 瀬川昌久さんに、9月3日の東京倶楽部でのみちかのライブの
案内状を差し上げたところ、瀬川さんからカウント・ベイシーの
似顔絵が入った葉書を頂戴した。文面は’いろいろニューヨークでの
道華さんのご活躍を伺いたいと思い参上したいと思いましたが、昨日からの
豪雨のための夜の外出を控えるよう家族で決めておりますので、残念ながら
欠席させて頂きました。老齢のため余り家族を心配させる訳にもいかず
お許し下さい。’と記されていた。
10月4日の東京新聞夕刊の”にんげん賛歌”の欄に瀬川さんが
取り上げられていた。瀬川さんは現在81歳になられる。しかしまだまだ現役で、
現在は”月刊ミュージカル”の編集長を務めていられるのだ。コレクトし
戦前からのSPレコードが一万枚以上、後世に伝えるのが役目と話されている。
昭和初期からの舶来大衆音楽について知る第一人者である。著書に”ジャズで踊って”
”ブルー・コーツの70年”などがある。
瀬川さんは旧富士銀行の銀行マンで、長らく同銀行のニューヨーク支店に
勤務されていた。少年期に父上がロンドンに赴任していたので、その地で
ミュージカルやジャズなどを聴いて育った瀬川さんだから、ニューヨーク勤務は
最高に楽しかったに違いない。
タイトルは忘れたが、アル作家がニューヨークでの生活を綴った文中で’私の
上司が大のジャズ好きで、彼について毎晩クラブに出かけていた’として、上司とは
瀬川さんであると述べている。若きエリート銀行マンの颯爽たる姿が思い浮かんでくる。
瀬川さんは、銀行を定年まで勤め上げ、退職金の全てを投じて”ジャズ・アイ・ラヴ”
というコンサートを主催された。昭和54年のことで、このコンサートにより、
戦前からジャズ一筋でやってきた演奏家が再び脚光を浴びることになったのだ。
このコンサートのために編成されたグループの名称が”谷口又士と
オールド・ボーイズ”。そして、そしてである、このグループのシンガーが、若き
植村美芳子だった。
オールド・ボーイズの活動と同時期に、自由劇場の”上海バンスキング”が
上演され話題となった。これも瀬川さんの影響が大きかったとおもわれる。
(作者の斉藤憐は”幻のアニイ・パイル劇場”という本を書いていて、これがとても
面白いので、いつか雑感をまじえながら紹介したい。)
ダンディな瀬川昌久さんは、今もニューヨークに想いを馳せている。出来ること
なら私も瀬川さんのお供をして、瀬川さんの識るニューヨークを知りたい。

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’石段の猫’ 伝説について
=2005.12.10=

 12月になった。私の住まいの前の道路に、並木とは言えないが、両側に合わせて
10数本の銀杏の木がならんでいる。今、黄色くなった落ち葉が地面に重なり合って
散っている。そこを通るときは、スリップしそうなので、ゆっくりと歩いている。
3何前の12月に、ふと足元がもつれて点灯した。両手がふさがっていたので、顔面
を地面に打ちつけてしまった。幸い歯は折れなかったが、唇がタラコ状に腫れて
しまい、それ以来、鼻の下とあごの部分にカミソリをあてていない。だから’ひげを
伸ばしたのですね’という人とは、3年以上、会っていなかったという人になる。ひ
げは決して洒落っ気から生やしたものではない。
アーノルド・ショー著’シナトラ’の邦訳本に思わず笑ってしまう訳文があった。
笑いすぎて涙がページにシミになって残っている。それはシナトラについて歌手の
ジョー・スタフォードが述べているくだりである。’フランクがマイクの前に来た
とき、ぼくはへんなやせっぽちがと思った。気が変わった。こいつはすごい声
だとね。’訳者はジョーという名前から男性だと思ったのだろうか。ミリオンセラー
の女性歌手が、思い違いと思い込みの邦訳で本を読んだ人から男性歌手と
言い伝えられることもあり得るのだ。
20数年前に、瀬川さん構成になるコンサートが日比谷公会堂で公演された。
’上海バンスキング’を上演した自由劇場の吉田日出子さん他の役者さんも出演した。
コンサートの司会は私が務めた。公演当日に、歌手の笈田敏夫さんが来て、
吉田日出子さんとは面識がないので紹介してくれと頼まれた。私も異色の大女優とは
この日に初めてご挨拶したばかりだったのだが、笈田さんは自己紹介もそこそこに
’吉田さんの出現で日本のジャズ歌手はみんな泣いてるよ’と言ったのだった。
彼女は上海バンスキングの中で、川畑文子(戦前のジャズシンガーでレコードも
残っている)の丸コピーにもかかわらず完璧なジャズソングを聞かせていたからだ。
役者吉田日出子はすでに伝説となっているが、歌手吉田日出子の存在も
言い伝えられるべきと、私は思っている。
オールド・ボーイズに関沢幸吉さんというトランペット奏者がいた。私の友人の
トランペット奏者の下間哲君が演奏をしていた所に、1人の男性が’私の親父も
ラッパ吹きだった’と、話しかけてきたそうだ。きけば彼の父親が関沢さんで、
死んだ親父の楽器を吹いてくれないか、と頼まれた。下間君は次の出演場所で
関沢さん愛器を吹いた。聞いていた息子さんは涙を流して喜んだそうだ。この話はつ
い最近、下間君からきいたばかりのいい話である。

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